近大の「美男・美女図鑑」に対して、大学の教職員組合が「品性を疑う」とツイッターに投稿したことがニュースになり、ルッキズムについて問題提起がされている。
勉学する場である大学の広報誌で、外見を重視したページがあることに、大きな違和感を持つ人も少なくない。
しかし、人は美しいものに惹かれる生き物だ。
「楽しいキャンパスライフ」をイメージしたとき、素敵な異性とときめく恋愛を期待する人は多いだろう。
外見を人の魅力として評価することのなにが悪いのだろうか。
今回は、ルッキズムの意味と問題点を詳しく解説。
日本におけるルッキズムの現実につて考察していこう。
目次
ルッキズム(外見至上主義)の意味
ルッキズム(外見至上主義)とは、その名の通り、優れた外見を大きく評価する価値観のこと。
ルッキズムという言葉の起源は、アメリカファットアクセプタンス運動と言われている。
ファットアクセプタンス運動とは、1960年代後半にアメリカで行われた活動だ。
わかりやすく説明すると、「太っている外見だけで判断するな。体重と人の能力の関連性はないのだから、正当に評価しろ。差別するな」という活動である。
誰だって外見が美しい人を見れば、「素敵だな」と素直な感情を持つものだ。
アイドルが人気なのも、人間的魅力もさることながら、やはり外見的魅力の高さが大きな要因である。
人間として、美しいものに惹かれるのは、もはや本能と言っていい。
しかし、外見によって相手の能力を正当に評価できないのはいかがなものかと、ルッキズムは問題提起されているのである。
ルッキズム(外見至上主義)のなにが悪い?
私は美しさも能力の1つで、評価されて当然と思っている。
しかし、ルッキズムが問題視されるのは、過剰なまでに外見を重視し優遇することで、大きな不公平や不具合が生まれることである。
ルッキズムのなにが悪いのか、具体的な問題を1つずつ解説していこう。
就職など外見とは関係ない能力評価に不平等を起こす
就職は人生を左右する大きな岐路だ。
自分の希望を叶えるために、皆努力して就職活動を続けている。
しかし、明らかに能力が低いのに、外見が美しいから採用され、能力的には充分でも、外見的に評価が低いために不採用になる…という事態が起こっている。
モデルなど、外見が仕事と直結する職種ならば、外見重視で採用が判断されるのは当然だ。
問題なのは、外見が全く関係ない職種でも、不必要に外見が優遇される現実である。
事実、外見が優れている人の方が採用率は高い傾向だ。
一方、能力的には問題ないのに、容姿による偏見で落とされるケースもある。
ルッキズムが男女差別を助長させる
ルッキズムは男女差別を助長させる原因にもなる。
「女性が化粧するのは当然の身だしなみ」「女性ならばヒールのある靴を履くべき」など、外見を重視するあまり、男性にはない暗黙の了解を強いる職場があるのだ。
日本の男女平等意識はまだまだ低い。
未だに「女性は若くて綺麗な外見をしていれば、大したスキルがなくても構わない」と言ってのける人もいる。
「女性は職場の花」という昭和の古臭い価値観は、実は根強く残っているのだ。
外見磨きにはお金がかかるため貧困層は不利
外見を美しくするには、何かとお金がかかるものだ。
逆を言えば、以下のようにお金さえかければ、どんな人でもある程度の外見レベルが簡単に手に入る。
- 美容院で定期的なお手入れやカットなど
- エステで美肌、脱毛、スタイルアップ
- 品質の高い化粧品等で日々のスキンヘア、ヘアケア
- 質の高いファッションを身に着ける
- スポーツジムに通い効果的なシェイプアップ
ファッションや髪型のアドバイスなども、お金をかければいくらでも学べる。
ルッキズムとは、実は素材だけの勝負ではないのだ。
そのため、外見ばかりを重視されると、貧困層は非常に不利である。
お金のある裕福層がどんどん外見を磨き、貧困層との差は広がる一方になる。
容姿いじりからいじめにつながる恐れがある
ルッキズムは「容姿の優れた人に魅力を感じる」だけではない。
「優れた容姿は価値が高い→容姿が悪い人は価値がない」と、歪んだ解釈をされ、間違った価値観を植え付けるのが、ルッキズムの大きな問題である。
「チビ」「デブ」「ガリ」「ブス」など、容姿を侮辱する日本語は数多い。
今時職場でこのような言葉を使えば一発アウトだが、問題は子供の世界だ。
容姿を評価する価値観は、「中身も大切」「人の容姿を貶すのは心が貧しい人がすること」というのと同時に教えなければ、「容姿が悪い人は価値がないから、粗雑に扱っても構わない」という間違った解釈をされる恐れがある。
親の日頃の発言を子供は良く聞いていて、間違った価値観が植え付けられると、容姿いじりからいじめにつながる恐れがあるのだ。
ルッキズムが抱える非情に大きな問題である。
病気や障害、人種などの差別につながる恐れがある
情報が少ない状態でルッキズムが浸透すると、病気や障害、人種差別にまでつながる恐れがある。
大人の多くは、人の外見が必ずしも本人の努力の影響を受けないとわかるだろう。
しかし、まだ世間を知らない子供や無知な人は、安易に外見の違いを下に見るようになる。
そして、不用意に相手を傷つけ、しかも罪悪感を持たない。
そのような人が増えれば、どんどん差別は広がっていくのだ。
過剰なダイエットなどの健康被害につながる恐れがある
美しい人が評価されるのは、避けようのない現実だが、最終的には内面も含めて総合的に判断される。
しかし、「外見至上主義だから、醜くなると人生詰む」と、強迫観念のように美を追求してしまう人もいるのだ。
すると、過剰なダイエットによる貧血や栄養失調、拒食症などの健康被害につながってしまう。
強い劣等感により精神を病む恐れがある
ルッキズムは「美しくない自分はダメだ」と、精神を病む可能性もある。
アメリカではインスタグラムが問題になっている。
美しいボディや顔、素敵な生活を発信しているインスタグラムを見て、「自分は全然ダメだ」「自分は太っている」と、認知を歪ませ、メンタルヘルス不調を起こす弊害について指摘された。
特に10代の少女への悪影響が強い結果だった。
成長途中で自己確立されておらず、ボディイメージもあいまいな10代にとって、ルッキズムの象徴とも言えるインスタグラムの世界は、劣等感を強く刺激する世界なのだろう。
ルッキズム(外見至上主義)を取り巻く現実
ルッキズムには問題が山積みだ。
ルッキズムは間違った価値観である。
そのような主張が多いが、日本社会は確実にルッキズムの価値観が浸透しているのが現実だ。
派遣社員として多数の企業で就業経験があるが、外見を問題視しない職場は皆無であった。
公にはしないが、根底には「どうせなら、外見が素敵な人が多い方がいい」という思いがあるのだ。
ルッキズムを取り巻く現実について、詳しく解説する。
外見が相手に与える印象は絶大
身もふたもないが、誰もが外見フィルターを持っている。
外見フィルターを通るレベルに達していなければ、どんなに素晴らしい内面を持っていても見てもらえない。
だから、就職活動は身だしなみを整えるし、好きな人と会う時は、いつも以上にファッションに気を使うものだ。
ルッキズムを否定する人でも、実は無意識に外見の重要性を理解し、実行しているのである。
外見が相手に与える印象は絶大なのだ。
しかし、誤解しないでほしいのは、「外見の評価は、決して持って生まれた容姿だけではない」ということ。
人は外見であらゆることを瞬間的に理解し、総合判断をしている。
具体例をいくつかあげよう。
- ファッションセンスで流行のアンテナや美意識、個性を判断
- 身に着けているものの価格帯で、経済状況や金銭感覚を判断
- 表情や姿勢で、相手の性格や社交性を判断
- 立ち振る舞いや仕草で、品位やマナーを判断
- 体つき(筋肉量や体重など)で、健康への意識を判断
むしろ、顔以外の外見的要素で、相手のイメージを決めていると言っていいだろう。
自分の価値を限りなく高く見せ、相手に好印象を与えるのは、テクニックと演出力が勝負である。
そして、「相手に自分を良く見せたい」というのは、相手に敬意を払っていることも意味する。
人と会うとき、身だしなみを整えるのは、当然のマナーなのだ。
当然のマナーに、オシャレや誠実さなど、自分に合ったアレンジを加えるのが上手な人が、外見で評価を高める人の典型である。
外見が相手に与える印象は絶大だが、自分である程度コントロールできるのが真実だ。
同じ能力なら外見が良い方が優遇される
ルッキズムの問題は、外見を重視するあまり、人の能力を正当に評価しない点である。
ぶっちゃけ、同じ能力なら外見が良い方が優遇される。
外見でアドバンテージを取っているのだから、優遇されるのは必然だろう。
「いやいや、自分より能力の低い人が、外見だけで採用された」という意見もあるだろう。
残念ながら、そのような職場や環境は、そもそも高い能力を求めていないケースが多い。
例えば能力値として「3あれば充分」という場合、「3で容姿が優れている」「10で容姿がイマイチ」の2社では、3でも容姿が優れている人が採用されやすいのが現実だ。
なぜならば、能力としては3で充分事足りているからである。
派遣社員でたくさんの職場を経験したが、特殊スキルが必要な職種ほど、容姿は重要視されない。
なぜならば、満たされるスキルを持った人材の絶対数が少ないため、容姿で選ぶ余地がないからだ。
ルッキズムによる合否の不公平感は、難易度の低いシチュエーションで多く発生する。
「ルッキズムなんかくそくらえ!」と思うなら、容姿評価の余地がないほど高い能力を身に付けるのが良いだろう。
天才的にずば抜けた能力がないと外見を度外視されない
社会ではTPOが重要視される。
どんなに能力が高くても、場にそぐわない格好をしていれば、評価を落としてしまうだろう。
スーツが基本の職場に、TシャツGパンサンダルで出社すれば、誰だって叱られる。
今のは極端な例だが、能力が高くても、TPOに合わせたファッションを選び、身だしなみを整えて清潔を保つのは、社会人として当然の行動である。
ルッキズムを否定する人の中には「そのままの自分を見て欲しい」と主張し、あえて自分を飾らないタイプもいるが、それはワガママというものだ。
デートを約束した相手が、「そのままの自分を見て欲しい」と、普段の部屋着で待ち合せ場所に登場したら、多くの人は常識を疑うだろう。
過剰な外見評価は問題だが、ルッキズム思考は誰もが持っているものである。
例外があるとすれば、代わりのない天才的にずば抜けた能力者だ。
「君がいなければ何も始まらない」という要の存在ならば、外見がだらしなくても周囲は大目に見るしかないだろう。
超人気漫画家が「風呂に入る時間もなかった」と、くったくたのスウェットで現れても、編集者は何も言わないどころか、感謝し気遣いするものだ。
「外見は関係ない。中身を見てくれ」と言いたいなら、相手が「マジ外見関係ないです。すみませんでした!」とひれ伏す能力を手に入れるしかない。
ルッキズム(外見至上主義)を変えるには個人レベルでの意識が必要
ルッキズムの価値観を社会的に変えるのは、非常に困難である。
やはり、近くに綺麗な人がいた方が、意欲的になるもので、自分が選べる立場ならば、つい外見を重視してしまうだろう。
外見は重要である。
自分の外見に気を遣い、美しくあろうと努力し上手に演出すれば、周囲の対応も変わるものだ。
身だしなみはマナーであり、相手への気遣いでもある。
だからこそ、人は外見を重視するのだ。
また、遺伝子レベルでの美しさは、その人の持って生まれた才能として認められるべきだと思う。
天才的なスポーツ選手や学者が賞賛されても「差別」と言われないのに、美しさだけを目の敵のように「ルッキズムは悪」と言うのはおかしい。
なぜならば、スポーツセンスやIQなども、遺伝子の影響を大きく受けるからだ。
持って生まれた美しさを更に磨いて評価を受けることに、一体何の問題があるのだろう。
もちろん、ルッキズムによる差別や偏見は間違っている。
特に子供への教育は慎重にすべきだ。
「美しさは本人の能力の1つ」であり「美しくない人は価値がない」ではない。
線引きをしっかり行い、人としての尊厳は当然守るべきだ。
何を優先するかは、人それぞれ。
近大の美男美女図鑑も賛否両論で、意見が分かれている。
多様な価値観を統一するのは難しい。
それでも、ルッキズムにより発生する問題点を改善するには、個人レベルでの意識改革が必要だ。
「美しいものに惹かれる」という本能的な感情に流されない鋼の理性を、果たしてどれくらいの人が持てるだろうか。
私は持つ自信がない。
やっぱり、美しい人は愛でたくなるのである。